賛否両論

トリコロールの話

今週は週初めから、なんとなく”違和感”というキーワードが飛び交っている。
私の身近で感じたのは下記の2点についての意見によるものです。
一つはフェイスブック上でのプロフィール画像をトリコロールに変える行為についての件。
もう一つは金沢マラソンについての件となります。
フェイスブックユーザーの方々ならもうすでに周知のことですが、パリでのテロに関して
哀悼の意を表明するためにフェイスブックが行ったプロフィール画像加工機能の事です。
フェイスブックユーザーではない方々には「???」だと思いますが個々のユーザーの
顔写真にフランスの国旗、トリコロール模様を手間なく重ね合わせる機能をパリのテロ以降
フェイスブック内で提供を始めた機能です。
本来の解釈であれば「被害にあわれたパリ市民に哀悼の意を表す」という機能ですが
人それぞれの感じ方があり「なぜフランスだけが被害者なの?」と不快感を
感じられた方々が多くいたことも事実で、それが今回の”違和感”に繋がっています。
私自身、20代の頃、フランスにお世話になっていた経緯もあり、この機能を利用し短期的に
早く平穏な日常が取り戻せるようにとの願いを込めプロフィール画像を変更させて頂きました。

今回の件で賛否が分かれた大きな理由は
フランス、そしてパリという街への個人個人の距離感の違いが大きな要因だと感じます。
日本人にとってフランスやパリは昔からどこか憧れの国や街でありイメージ的には嫌悪される
ことが少ない場所です。だから今回、フランス(パリ)での出来事に対し多くの日本の方々が
哀悼の意を表したいという思いでフェイスブックの機能を利用したのだと思います。
ただしこの機能に対し意見される方々の本意も理解できます。
今回のテロ以上の惨事が他地域では日常的に続いており、なぜフランスだけ?という違和感を
感じるのも当然のことと思うのです。
そんな中でSNS上で繰り広げられた感情的な論争の個人的な意見を書く前に世界的な話題
から非常にローカルな話題になりますが、もう少しだけお付き合い下さい。

 

金沢マラソンの話

11月15日、石川県金沢市で初めての金沢マラソンが開催されました。
金沢市長、山野氏が選挙公約で掲げていたスポーツイベントがようやく実現されました。
マラソン当日は金沢市中心部をはじめ主要な地域の大規模な交通規制が行われたために
マラソンとは関係のない市民の方々や観光で来られた皆様に大変なご不便をおかけした事が
SNS等で”ご不満”として書かれております。
新幹線開業でただでさえ来訪者の増えた金沢市、そして七五三等の従来から続いている行事
への支障を考えると交通規制による不便を感じられた当事者の皆様にとっては大変、不快な
ことだったと思います。
ただ一方で、この初開催となったマラソンに協力された方々、また実際にマラソンに参加
された方々に意見は一様に、「素晴らしいイベントだった」「金沢の良さを知った」との
意見がSNS等で書かれているのも事実でした。
私の知人・友人も遠方より参加し金沢の方々の温かさ、優しさ、ホスピタリティの高さを
賞賛していました。
「もう来年は開催しないでほしい」・「来年もぜひ参加したい」
この両者の意見と前述のトリコロールの賛否、どちらにも共通点があるように思うのです。

それは
・その事柄についての距離感の違い
・現代の表現する場の多様性
・そして言葉の力です。

フランスに対し近しい感情があればあるほどプロフィール画像の変更はごく自然な事で
対し、そうでない場合は違和感を生ずる。
マラソンに対し近しい感情があればあるほど金沢市内を巡る大きなイベントは魅力的で
対し、そうでない場合は不快感を生ずる。
そして感じたままの心の中にある声を、SNS等の個人メディアで発信できる現代。
その言葉は賛否どちらも一方的な言葉が多い。
「やる・やらない」まさに「YESかNO」の言葉には決して交わる事がなく平行線を辿る。

一昔前、「NOと言えない日本人」というフレーズが流行した。
若かりし頃の私も、そんな日本人になりたくないと思い海外に出て行った記憶がある。
でも、それは今、思えば最終的な結論を導きだす為の最終的な段階のことであり
ベストな結論を求めついた先に行うのが2択という選択肢だと40歳を過ぎて考えるようになった。
ベストな結論を導き出す為に、議論する場では日本語特有のニュアンスが共創を高める
それは「YESに近いNO」とか「NOに近いYES」のようないわゆる曖昧なニュアンスを
言葉として交わせるのが日本語だからだと思う。
世界的に見ても非常に複雑で言葉一つ一つのニュアンスを理解するのにとても難しい言語の
日本語。でもその言葉は本当の意味で争いを嫌う日本人ならではの優しい言葉の表現が凝縮
した言語ではないでしょうか。相手を傷つけず意思を伝えられる言葉。
そんな日本語本来の優しさがSNSでも交わす事ができるならば、今回の感情的な論争も
起きなかったのかもしれません。

曖昧な表現が多く平和ボケしている日本人と言われることがあります。
ある意味、今回ここで書かせて頂いた2例についてのSNS上での論争は、平和だからこそ
できる論争であって、そんな時間を持てることこそ幸せの証。
平和ボケするくらい平和な国って世界中見てもほんの僅かな国しかないのですから。
そんな国民であることを誇りに思い、そんな国民だからできる使命を考える。
平和に暮らせる日常を維持している稀な人種、日本人が世界を平和にできる事って何か?を
SNS上で議論する事が増えることを心から願います。

ほんの少しでも誰かを想って書く文章には優しさが宿ると思う。