沈黙は金、雄弁は銀

”沈黙は金、雄弁は銀” なんとなく思い出した諺(ことわざ) んっ?これことわざなのか?。
同じような意味合いの諺が世界にも色々あるらしいと、まとめサイトで知りました。
なんとなく、ふと思ったことを調べるという習慣が身についてきたようです。
子供の頃 「解らないことがあれば辞書を調べろ!」 と言われるのが本当に嫌いだったのに...w
で、意味としては

一般的には、下手な弁論・弁解よりは沈黙している方がましである、言わぬが花、といった意味合いで用いられる。 一節によれば、「雄弁は銀、雄弁は銀」(Speech is silver, silence is golden)の格言の成立当初は金より銀の方が価値が高かった、つまり元来は沈黙よりも雄弁を称えた格言であったという。
引用:実用日本語表現辞典

昔は雄弁であることが価値があったとされ、今は無駄口をたたくよりも沈黙の方が良いという事だそうな。
時代によって諺(ことわざ)の意味が変わることを初めて知りました。
もしかすると、また時代が進むと更に意味が変わるのかもしれません。
この言葉を発するという行為に関しての諺から感じるのは、時代によってコミュニケーション手段が異なり
それに伴い、言葉を発するという行為の価値が変化するということ。

あくまでも私の主観でのコメントとなりますが
【雄弁である事が価値があった時代】
物言うことが抑圧されていた時代、個人的な主義主張が異論とされ地位的な立場が優先された時代に
おいて、説得力のある発言をすることに価値を見出された時代。雄弁であることが自由や強さ、
勇気の表現として捉えられた時代なのかもしれません。

【沈黙することが美徳とされた時代】
言論の自由が許され、個人の主義主張を唱えることが可能になった時代、メディアの普及ともに
それまで統制されてきた言葉や発言がラジオ、テレビの音声や画像による情報量の増加が
受け手によってはノイジーに感じる時代、そんな時代の中で無駄口を叩かないことが美徳とされた時代。
そして、コミュニケーションが苦手な国民性にとって無口であることが徳だという自己解釈により
救われた時代が今回の諺の意味合いを大きく変えた要因なのかもしれません。

さて前述が長くなりましたが、では現代、雄弁と沈黙、どちらが価値があるのか?
日本においては、多分言ってはいけないこと、発言すると法律に触れる言葉やセンテンスは、ほぼ
無い時代でございます。情報インフラが発達し個人での情報発信が容易となり、誰もが発信する事を
あたりまえと思える時代に、先の雄弁と沈黙、どちらに価値があるのか?

難しいです。

一方通行だったメディアの情報発信に双方向という流れが生まれ、双方向を超えた交錯というか
多方向性の情報社会、一方通行時代よりも明らかに事実が発信されていることは間違いないが
事実と誤報の見極めが難しい時代の中で
雄弁というか情報発信量の多い事に価値を見言い出すことができるかどうか?
そして沈黙であることがこの時代の中で見合っているのか?
結論が出ない疑問であります。
ただ、ここ最近のネット上の発言や言葉を見ていると感じるのは
異論と唱えるのではなく完全否定が多いということ、事象ごとの本質的な部分ではなく感情的な
言葉が溢れていることに悲しさやせつなさや苦しみを感じます。

CMの内容を否定し放送中止になる。
被災地の復興を願うと言葉で書くと願うだけじゃ意味が無いと罵る。
政治思想を個人見解で言い争う。

言い合うことは決して悪いわけではないのです、そこに発信者が見えないのが寂しいのです。
匿名同士が言い争うことに答えはなく、平行線の先にはわだかまりだけが残るのです。
情報発信が矛であるなら匿名は盾であり、矛盾そのもの。
沈黙は金、雄弁は銀
言葉の真意を理解し発信者との信頼関係を尊重し耳を傾ける姿勢で望む沈黙は金
裏づけのある事実を受け手の気持ちを考え、発信後に起こる事をイメージし雄弁を振るうも金

沈黙を論破する雄弁は銀、雄弁を嘲笑う沈黙も銀
雄弁に理解を示す沈黙は金 沈黙の意を知る雄弁も金

スポンサーリンク